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必死に反乱、正長の土一揆
借金苦の農民たちが酒屋、土倉、寺院を襲って、借金の証文を焼き払った。
凶作や社会不安の時代、近江国(滋賀県)坂本や大津の馬借(ばしゃく)による徳政(借金の帳消し)を求める運動が周囲に波及。
幕府はこれを鎮圧しようとしたが、一揆は京から大和国(奈良県)へも広がった。
幕府は徳政令を出さなかったが、土倉などの証文が破棄されたため、実質的な徳政になってしまった。
大和国のほぼ全域を荘園にしていた興福寺も徳政を認めた。
一揆の様子を「大乗院日記目録」では次のように記している。
また奈良県奈良市に残る「柳生の徳政碑文」にも、一揆による徳政の実現について農民の立場から文章が彫られている。