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こんな場所から金印出土
後漢(ごかん)の光武帝(こうぶてい)が、日本の国王に金印を授けた。
後漢書東夷伝(ごかんしょとういでん)によると、倭奴国の使いが光武帝のもとを訪ね、帝は「漢委奴國王」(かんのわのなのこくおう)と刻まれた金の印を授けた。
金印の「漢委奴國王」の「委」は「倭」の略記だとし、「漢(後漢)に属する倭国(日本)の奴国(なこく・福岡県福岡市)の王」だと解釈する説が有力。
しかし、「漢に属する委奴国(いとこく・福岡県糸島市)の王」だとする説などもある。
どちらにしても当時の日本の王が中国に朝貢していたことを示すものである。
金印は江戸時代に福岡県福岡市志賀島(しかのしま)の田んぼで、農民が偶然発見した。
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不 作も吹き飛ばす金印パワー
魏(ぎ)の皇帝が、日本の国王の卑弥呼(ひみこ)に金印を授けた。
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)によると、倭の邪馬台国(やまたいこく)の使いが魏の皇帝のもとを訪ね、帝は「親魏倭王」(しんぎわおう)と刻まれた金の印と銅鏡100枚を授けた。
金印の「親魏倭王」は魏に親しい倭の国の王という意味だが、現物は発見されていない。
「親魏倭王」という称号は、邪馬台国が周辺諸国に対して魏の威を借りて勢力を示すのに利用したと考えられている。
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サンキュー一気に2国いただき!
倭国が百済(くだら・ペクチェ)、新羅(しらぎ・シルラ)を征服した。
4世紀ごろの朝鮮半島は高句麗(こうくり・コグリョ)・百済・新羅・加羅(から・伽耶(かや)・任那(みまな))の4つに分かれていた。
各国は争っていたが、中でも高句麗の勢力は強かった。
高句麗に対抗すべく、百済は倭国との結びつきを強めた。倭国が朝鮮半島に兵を出し、高句麗を追い出した。百済と新羅は倭国の属国になった。
また加羅も倭国の勢力下にあった。
その後、高句麗が百済や新羅に攻め入り、倭国兵を追い出した。
これらのことは好太王碑(こうたいおうひ・広開土王碑)に記されている。
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Go to 長旅、筑紫まで
朝鮮半島へ出兵しようとしたヤマト王権の軍を、筑紫(つくし・福岡県)の国造(くにのみやつこ・地方の代表役人)磐井(いわい)が阻止した戦い。
ヤマト王権による度重なる朝鮮半島への出兵において、大きな負担を強いられた九州の豪族・磐井。
彼はヤマト王権とやはり敵対する新羅(しらぎ・シルラ)と手を結んだ。
磐井は朝鮮半島諸国からやって来る朝貢船を略奪し、ヤマト王権が派遣した近江毛野(おうみのけぬ)の軍と交戦した。
戦いは1年半続き、ヤマト王権が勝利した。
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ご参拝仏教公伝
第29代・欽明天皇(きんめいてんのう)の時代に、百済(くだら・ペクチェ)から仏教が伝わった。
これまでにも渡来人によって私的に仏教が倭国にもたらされていたが、公的には百済の聖王(せいおう・聖明王)の遣いが金銅の仏像・経典などを伝えたのが最初とされている。
仏教の導入に反対する物部氏(もののべし)と、仏教を積極的に導入したいと考える蘇我氏(そがし)が対立した。
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コックさんは聖徳太子
聖徳太子(しょうとくたいし・厩戸王)が、推古天皇(すいこてんのう)の摂政になった。
第30代・敏達天皇(びだつてんのう)の皇后であった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。
蘇我馬子(そがのうまこ)の謀略で、第32代・崇峻天皇(すしゅんてんのう)が暗殺され、馬子は額田部皇女を即位させて、推古天皇とした。
日本初の女帝となった推古天皇は、甥にあたる聖徳太子を摂政に据えた。
馬子の絶大な権力の分散をはかり、推古帝・馬子・聖徳太子の勢力の均衡を保った。