57年
後漢の光武帝、金印を贈る
ごかんのこうぶてい、きんいんをおくる
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こんな場所から金印出土
後漢(ごかん)の(こうぶてい)が、日本の国王に金印を授けた。
東夷伝(ごかんしょとういでん)によると、倭奴国の使いが光武帝のもとを訪ね、帝は「」(かんのわのなのこくおう)と刻まれた金の印を授けた。
金印の「漢委奴國王」の「委」は「倭」の略記だとし、「漢(後漢)に属する倭国(日本)の奴国(なこく・福岡県福岡市)の王」だと解釈する説が有力。
しかし、「漢に属する委奴国(いとこく・福岡県糸島市)の王」だとする説などもある。
どちらにしても当時の日本の王が中国に朝貢していたことを示すものである。
- 【後漢書東夷伝】
- 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
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- (建武中元二年、倭奴国が貢ぎ物を持って拝礼した。使いの者は自らを地方豪族だと述べた。倭国は最も南にある。光武帝は印章を授けた)
金印は江戸時代に福岡県福岡市志賀島(しかのしま)の田んぼで、農民が偶然発見した。
239年
魏の皇帝、倭国に金印を贈る
ぎのこうてい、わこくにきんいんをおくる
239
不 作も吹き飛ばす金印パワー
(ぎ)の皇帝が、日本の国王の(ひみこ)に金印を授けた。
(ぎしわじんでん)によると、倭の(やまたいこく)の使いが魏の皇帝のもとを訪ね、帝は「」(しんぎわおう)と刻まれた金の印と銅鏡100枚を授けた。
金印の「親魏倭王」は魏に親しい倭の国の王という意味だが、現物は発見されていない。
「親魏倭王」という称号は、邪馬台国が周辺諸国に対して魏の威を借りて勢力を示すのに利用したと考えられている。
- 【魏志倭人伝】
- 今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬
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- (今、あなたを我が魏国と親しい倭国の王だと認め、紫色の組紐がついた金印を与える。)
391年
倭、朝鮮半島へ出兵
わ、ちょうせんはんとうへしゅっぺい
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サンキュー一気に2国いただき!
倭国が(くだら・ペクチェ)、(しらぎ・シルラ)を征服した。
4世紀ごろの朝鮮半島は(こうくり・コグリョ)・百済・新羅・(から・伽耶(かや)・任那(みまな))の4つに分かれていた。
各国は争っていたが、中でも高句麗の勢力は強かった。
高句麗に対抗すべく、百済は倭国との結びつきを強めた。倭国が朝鮮半島に兵を出し、高句麗を追い出した。百済と新羅は倭国の属国になった。
また加羅も倭国の勢力下にあった。
その後、高句麗が百済や新羅に攻め入り、倭国兵を追い出した。
これらのことは(こうたいおうひ・広開土王碑)に記されている。
- 【好太王碑】
- 百殘新羅舊是屬民由來朝貢 而倭以耒卯年來渡海破百殘■■新羅以為臣民
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- (百済・新羅は高句麗の属国だったので、2国は高句麗に朝貢していた。しかし391年に倭国が海を渡って、百済●●新羅を破り、属国にしてしまった)
527年
磐井の乱
いわいのらん
5 27
Go to 長旅、筑紫まで
朝鮮半島へ出兵しようとしたヤマト王権の軍を、筑紫(つくし・福岡県)の国造(くにのみやつこ・地方の代表役人)(いわい)が阻止した戦い。
ヤマト王権による度重なる朝鮮半島への出兵において、大きな負担を強いられた九州の豪族・磐井。
彼はヤマト王権とやはり敵対する(しらぎ・シルラ)と手を結んだ。
磐井は朝鮮半島諸国からやって来る朝貢船を略奪し、ヤマト王権が派遣した(おうみのけぬ)の軍と交戦した。
戦いは1年半続き、ヤマト王権が勝利した。
538年
仏教公伝
ぶっきょうこうでん
538
ご参拝仏教公伝
第29代・(きんめいてんのう)の時代に、(くだら・ペクチェ)から仏教が伝わった。
これまでにも渡来人によって私的に仏教が倭国にもたらされていたが、公的には百済の聖王(せいおう・聖明王)の遣いが金銅の仏像・経典などを伝えたのが最初とされている。
仏教の導入に反対する物部氏(もののべし)と、仏教を積極的に導入したいと考える蘇我氏(そがし)が対立した。
593年
聖徳太子、摂政になる
しょうとくたいし、せっしょうになる
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コックさんは聖徳太子
(しょうとくたいし・厩戸王)が、(すいこてんのう)の摂政になった。
第30代・敏達天皇(びだつてんのう)の皇后であった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。
(そがのうまこ)の謀略で、第32代・崇峻天皇(すしゅんてんのう)が暗殺され、馬子は額田部皇女を即位させて、推古天皇とした。
日本初の女帝となった推古天皇は、甥にあたる聖徳太子を摂政に据えた。
馬子の絶大な権力の分散をはかり、推古帝・馬子・聖徳太子の勢力の均衡を保った。