603年
冠位十二階
かんいじゅうにかい
603
群れさんざめく十二階
聖徳太子(しょうとくたいし・厩戸王)は、日本で最初の位階制度を制定した。
氏姓制度とは異なり、氏ではなく個人の能力に対して位階を与える制度を導入した。
位階は「徳・仁・礼・信・義・智」の6段階あり、それぞれを「大・小」に分けて12階とした。また「紫・青・赤・黄・白・黒」の色を充て、その濃淡で大と小を区別できる冠を、位階に応じて役人は装着した。
603
群れさんざめく十二階
聖徳太子(しょうとくたいし・厩戸王)は、日本で最初の位階制度を制定した。
氏姓制度とは異なり、氏ではなく個人の能力に対して位階を与える制度を導入した。
位階は「徳・仁・礼・信・義・智」の6段階あり、それぞれを「大・小」に分けて12階とした。また「紫・青・赤・黄・白・黒」の色を充て、その濃淡で大と小を区別できる冠を、位階に応じて役人は装着した。
6 04
労をおしまず憲法制定
聖徳太子(しょうとくたいし・厩戸王)は、日本で最初の成文法を制定した。
遣隋使を派遣して隋との国交を結ぶ中で、国家の体制を国の内外に示すため、聖徳太子は集権的な国家体制の基本理念を明示しようとした。
朝廷の役人や豪族が守るべき道徳的訓戒を、17条の漢文で制定した。
607
群れなして行く遣隋使
聖徳太子(しょうとくたいし・厩戸王)は、小野妹子(おののいもこ)を隋(ずい)に派遣した。
600年に第1回目の遣隋使を派遣したのち、続いて小野妹子を隋に派遣して皇帝煬帝(ようだい)に謁見させた。
小野妹子が持って行った国書の文面に煬帝は激怒したとされるが、隋は高句麗遠征を控えており、倭国と敵対するのは得策ではないと考えた。
翌年、煬帝は裴世清(はいせいせい)を返礼の特使として倭国へ派遣した。
645
蒸し殺される蘇我入鹿
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが、蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺。蘇我氏を滅ぼした。
聖徳太子(しょうとくたいし・厩戸王)の死後、蘇我蝦夷(そがのえみし)は、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を自殺に追い込み、専制政治を続けた。
これを善しとしなかった中大兄皇子、中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)は、蘇我氏打倒を計画する。
宮中にて入鹿が殺害されると、蝦夷も自宅に放火して自害。蘇我氏は滅亡した。
画像引用:wikipedia/Osakaosaka(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Asuka_Itabuki_no_Miya.jpg)
646
むしろ混乱、大化の改新
蘇我氏打倒により実施された政治改革で、豪族中心の政治から天皇中心の政治へと移り変わった。
蘇我氏を滅ぼした乙巳の変を受けて、その年を大化元年として元号を初めて定めたのち、新体制にもとづく政治の大改革を行うことにした。
646年(大化2年)の正月に孝徳天皇(こうとくてんのう)が改新の詔(みことのり・天皇の命令を書いた文書)を出した。
詔は次の4つのことがらについて記している。