663年(天智天皇2)
白村江の戦い
はくすきのえのたたかい・はくそんこうのたたかい
6 63
ろくろく見ずに白村江敗退
(くだら・ペクチェ)が、唐と手を組んだ(しらぎ・シルラ)に滅ぼされた。
倭国は百済を復活させるため兵を送り、唐・新羅と戦ったが敗れた。
仏教公伝など倭国と長らく関わりがあった百済が、唐と手を組んだ新羅に滅ぼされた。
百済は倭国に救援を求め、はこれに応じた。
朝鮮半島西の白村江で倭国と百済の軍と、唐と新羅の軍がぶつかる。戦闘は倭国側が大敗。
朝鮮半島ではその後、唐が高句麗へ侵攻し、高句麗を滅ぼした。新羅は唐の冊封(さくほう)を受け、朝鮮半島を統一した。
即位した(てんじてんのう=中大兄皇子)は、唐との関係正常化を図りながら、国防強化を進め、大宰府に(みずき)を建設し、(さきもり)を配置した。
672年(天武天皇1)
壬申の乱
じんしんのらん
672
無難に終わらぬ壬申の乱
(おおとものおうじ)と(おおあまのおうじ)が、皇位を巡って争った。
大海人皇子が勝利して(てんむてんのう)になった。
(てんじてんのう)は、我が子である大友皇子に譲位したいと考えるようになり、これまで重用していた弟の大海人皇子を疎んじるようになった。
大海人皇子はそれを察知し、表向きは皇位を継ぐ気はないと演技して、吉野(よしの・奈良県)に引き籠った。
天智天皇が崩御すると、大海人皇子が挙兵。自領の美濃(みの・岐阜県)に到着するまでに、彼に味方した地方豪族が合流して大軍になった。近江宮の大友皇子も応戦するが、陥落。大友皇子は自害した。
大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)を造って即位し、天武天皇となった。
694年(持統天皇8)
藤原京遷都
ふじわらきょうせんと
694
労苦しこたま藤原京
(じとうてんのう)は都を飛鳥から遷都した。
持統天皇は(あすかきよみはらりょう)を施行し、国の内外に律令国家の成立を宣するために新たな都の建設を急いだ。
唐の長安を参考に条坊制を採用し、飛鳥の北側にあたる現在の奈良県橿原市付近に都を造営し、遷都した。
画像引用:wikipedia/663highland(http://ur0.work/Dtbt)