1156年(保元1)
保元の乱
ほうげんのらん
1 156
いちいち殺せと後白河
皇位継承をめぐる後白河天皇と崇徳上皇の対立に、藤原氏内のいざこざが重なって、平氏や源氏をも巻き込んだ争いに発展した。
22歳の若さで退位させられた崇徳上皇(すとくじょうこう)は、自分の子をいずれ天皇の座にと考える。しかし弟の後白河天皇(ごしらかわてんのう)が即位してしまい、弟と対立することになった。
また藤原摂関家でも、藤原忠通(ふじわらのただみち)と頼長(よりなが)が対立。子がいなかった忠通は、異母弟の頼長を養子に迎えて後継ぎにしたものの、その後忠通に実子が生まれたため、頼長を疎んじるようになり養子縁組を破棄。以降、双方の溝は深まるばかりとなってしまった。
後白河天皇は藤原忠通と結びつき、さらに平清盛(たいらのきよもり)・源義朝(みなもとのよしとも)を引き込んだ。
崇徳上皇も藤原頼長と結びつき、さらに平忠正(たいらのただまさ)や源為義(みなもとのためよし)を引き込む。
鳥羽法皇の崩御をきっかけに、後白河天皇側の軍勢が崇徳上皇の居所などを夜襲し、わずか8時間で戦闘は終了。
崇徳上皇は讃岐に島流しになり、藤原頼長は戦死、平忠正や源為義は死刑となった。