1221年(承久3)
承久の乱(承久の変)
じょうきゅうのらん
1221
人に不意なり承久の乱
鎌倉幕府の将軍・源氏の血筋が絶えたのを契機に、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が幕府を倒せとの命令を出し、幕府軍と戦闘になった。
鎌倉幕府3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)が甥の公暁(くぎょう)に暗殺され、公暁も殺された。源氏の血筋が絶えた将軍職は、単なる飾り物になってしまった。
これにより源頼朝の妻・北条政子(ほうじょうまさこ)と彼女の弟である執権・北条義時(ほうじょうよしとき)が幕府をまとめることになった。これを幕府の弱体化だと認識した後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、幕府を倒して権力を朝廷に集中するために、義時を討てと命令を出した。
朝廷の敵と認定された義時だったが、北条政子が御家人たちに対して頼朝の恩を訴え、御家人はそれに応える形で義時に味方した。
京へ向かって幕府軍は進軍し、道中で朝廷軍を破りつつ、わずか3週間で京に到達。朝廷軍は総崩れとなって敗退した。
後鳥羽上皇は隠岐島へ流され、以降、幕府は朝廷を管理するようになる。
▲後鳥羽上皇