【中学高校大学受験】見やすい日本の歴史年表

~飛鳥時代
奈良時代
平安時代
鎌倉時代
室町時代
安土桃山時代
江戸時代
明治時代
大正時代
昭和時代

安土桃山・江戸時代、1600~1649年

  1603年(慶長8)

イベント 江戸幕府成立

えどばくふせいりつ
語呂合わせ

1603
人群れ満ちる江戸の町

概要
徳川家康(とくがわいえやす)が江戸幕府を開いた。


原因
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)の後、徳川家康は朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、中央集権的武家政権を江戸の地に開いた。


結果
江戸幕府は強力な統治体制を敷き(幕藩体制)、1867年(慶応3年)の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)による大政奉還まで、265年間存続した。

江戸城
▲江戸城

  1614年(慶長19)

戦・政変 大坂の役

おおさかのえき
語呂合わせ

1614
疲労必死の豊臣軍

概要
江戸幕府によって豊臣家が滅ぼされた。


原因
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)の後、徳川家康(とくがわいえやす)によって石高を削減されたことで、豊臣秀頼(とよとみひでより)と秀頼の母・淀殿(よどどの)は家康に対立心を抱いていた。

家康の子・徳川秀忠(とくがわひでただ)が2代将軍となった後も、関係は改善しなかった。
豊臣家が京の方広寺(ほうこうじ)の鐘を造った際、鐘に刻まれた「国家安康」の文字が家康を分断しており、侮辱していると幕府が因縁をつけた(方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん))。


結果
豊臣家は戦の準備に着手。これに対して家康は兵を送り、大坂城を包囲し、攻撃した(大坂冬の陣(おおさかふゆのじん))。

双方は一度は休戦したものの、翌年再び戦いとなった(大坂夏の陣(おおさかなつのじん))。豊臣軍に勝ち目はなく、大坂城は炎上。秀頼と淀殿は自害した。

炎上する大坂城
▲炎上する大坂城

  1615年(慶長20)

法・行政 武家諸法度の発布

ぶけしょはっと
語呂合わせ

1615
 広 い御法度の適用範囲

概要
江戸幕府が武家を統制するために定めた法令。


原因
大坂夏の陣で豊臣氏を滅亡させた徳川家康は、諸大名の引き締めのため、臨済宗の僧侶である以心崇伝(いしんすうでん・金地院崇伝)に命じて、諸大名と武家に対する法を起草させた。
完成した法は2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)が発布した。


結果
武家諸法度は将軍の代替わりの度に新たに発布された。3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の時代には参勤交代の制度が追加された。

  • ◆武家諸法度の一例
  • 学問と武道にしっかり励むこと
  • 自領地と江戸とを1年交代で往復すること(参勤交代)。大名の妻子は江戸に住むこと
  • 新規に城を建てることを禁止。城の修理が必要なときは、奉行所に申し出て指示を受けること
  • 大名は幕府の許可なく勝手に結婚してはならない

  1637年(寛永14)

暴動 島原の乱

しまばらのらん
語呂合わせ

1 6 37
ヒーローさながら天草四郎

概要
圧政に反発した島原(長崎県)キリシタンの農民が起こした一揆。


原因
キリシタン大名が藩主だった島原や天草(あまくさ・熊本県)では、領民にもキリスト教がひろく広まっていた。しかし藩主の交代により、キリスト教を良しとしない政策が行われ、キリスト教徒の弾圧が進んだ。
さらに過酷な年貢の取り立てが続き、領民の反発を招いた。


結果
島原のキリシタンが一揆を起こし、さらに天草でも呼応して、一揆が発生した。
天草四郎(あまくさしろう)を総大将にした軍勢は、一揆鎮圧のために派遣された幕府軍から逃げるため、天草から島原へ移動。島原の軍勢と合流し、原城(はらじょう)に籠城した。

島原の乱
▲島原の乱での一揆のうごき

幕府軍は兵糧攻めを実施。鎮圧には5ヶ月もの時間を要した。
こののち、幕府はキリスト教をより危険視し、絵踏み(えぶみ・踏み絵)の実施や寺請制度(てらうけせいど)によって、キリスト教の排斥を徹底するようになった。

前の時代へ次の時代へ
読みものいろいろ