江戸・明治時代、1850~1899年
1858年(安政5)
日米修好通商条約
にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく
1858
イヤ!ご破算に!通商条約
日米間で貿易に関する条約が新たに結ばれた。しかし日本にとって不利な内容だった。
(にちべいわしんじょうやく)を結んだことで下田に赴任した初代アメリカ総領事・は、日本との貿易をおこなうための条約を新たに結ぼうと幕府に働きかけた。
幕府とハリスの交渉の結果、条約を締結することになり、老中・(ほったまさよし)は孝明天皇の勅許(許し)を得ようとしたが、天皇も攘夷派の公家も条約締結に反対した。
新たに大老に就任した(いいなおすけ)は天皇の勅許がないまま、条約を結んだ。
条約の内容は日本にとって不利な不平等条約だった。しかし幕府は米国に続いて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んだ。
これにより井伊直弼は大きな非難を受けた。
- 【日米修好通商条約の主な内容】
- ●下田・箱館に加えて、神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港する
- ●米国の領事裁判権を認める()
- ●日本はを持たない
- ●日本は米国を最恵国待遇とする
1858年(安政5)
安政の大獄
あんせいのたいごく
1858
人はこわがる安政の大獄
大老・井伊直弼は、(そんのうじょういは)に対して過酷な弾圧を加えた。
朝廷の許可なく結ばれた日米修好通商条約は国内に大反発を呼んだ。また将軍の後継ぎ問題で、井伊直弼は反対派の声を押し切って(とくがわいえもち)を14代将軍に決定した。
井伊に反発する尊王攘夷派に対して、井伊は彼らを次々に処罰した。
徳川斉昭、一橋慶喜らが謹慎処分となったほか、志士に対して死刑を連発。(よしだしょういん)も死刑となった。
この大弾圧はのちの桜田門外の変を誘くことになる。
1860年(安政7)
桜田門外の変
さくらだもんがいのへん
1860
一派、無礼な直弼暗殺
大老・(いいなおすけ)が、水戸藩・薩摩藩の浪士らに襲われ、殺害された。
朝廷の許可もなく不平等な内容の日米修好通商条約を結んだことで、幕府への批判が強まっていた上に、将軍の後継ぎの問題が起こり、大名の間で対立が起きていた。
幕府の方針を批判する(そんのうじょういは)を一掃しようとした井伊直弼は、強権的に公家や大名などを処罰する安政の大獄を行った。
安政の大獄に激怒した水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が、江戸城桜田門外で、彦根藩の行列を襲撃。井伊直弼を殺害した。
これにより幕府の権威は大きく失墜し、尊王攘夷運動がますます盛り上がっていく。
1862年(文久2)
生麦事件
なまむぎじけん
18 62
いや、ろくに考えず斬っちゃダメ
横浜近くで薩摩藩・島津家の行列を馬で横切ろうとしたイギリス人が、薩摩藩士に殺傷された。
観光中のイギリス人の男女4人が生麦村(神奈川県横浜市鶴見区生麦)で、薩摩藩主の父・島津久光(しまづひさみつ)が江戸から京都へ帰る途中の行列に遭遇した。
馬に乗ったままのイギリス人たちは、大名行列が通り過ぎるまで道の脇に控えるというマナーを知らず、結果として行列を妨げる形になった。
警護の武士が彼らを斬りつけ、1人を殺害し、2人を負傷させた。
イギリスは幕府に抗議。幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドを要求した。
1863年(文久3)
薩英戦争
さつえいせんそう
18 63
一夜で無残な薩英戦争
生麦事件の報復で、イギリスの艦隊が鹿児島に現れ、薩摩藩と交戦した。
横浜近くで薩摩藩・島津家の行列を馬で横切ろうとしたイギリス人が、薩摩藩士に殺傷された(生麦事件)。
イギリスは幕府から賠償金を受け取ったが、さらなる賠償金の支払いと犯人の処刑を薩摩藩が渋ったため、薩摩藩との直接交渉に出た。しかし薩摩藩はイギリスの要求を拒絶し続けた。
イギリスは薩摩藩の船を強奪。これにより戦闘が始まった。
薩摩藩側は鹿児島市街が砲撃され、工場が壊滅した。イギリス側は暴風雨の悪条件と旗艦の艦長、副艦長が直撃弾を受けて即死するなど、双方ともに大きな被害が出た。
イギリス艦隊は事実上退却。市街地を攻撃したことについてイギリス国内でも非難が起き、薩英双方は和睦交渉に入った。
1864年(元治1)
禁門の変
きんもんのへん
1864
一番無視された長州藩
で勢力を失った長州藩は、武力で(こうぶがったいは・朝廷と幕府、大名を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとする福井藩や土佐藩、薩摩藩、幕府側)を排除するため、京都で戦闘行動を起こした。
(はまぐりごもんのへん)とも呼ぶ。
八月十八日の政変で京都を追われた長州藩は、朝廷の禁門警備の任を解かれた。
さらに池田屋事件で志士を殺害されてダメージを受けた長州藩は、藩主の冤罪を天皇に訴える目的で兵を挙げて京都に迫ったが、受け入れられなかった。
長州藩の兵と会津・桑名藩の兵が、京都御所の蛤御門で衝突。
一時は長州藩優勢で動いたが、薩摩藩が応援に駆け付けると形勢は逆転し、長州藩は戦闘に破れた。
朝廷に向けて兵を挙げたとして、長州藩は朝敵となった。
幕府もまた強力な薩摩藩の力を削ぎ落そうとし、長州藩を討てと薩摩藩に命じた()。
1866年(慶応2)
薩長同盟
さっちょうどうめい
1 8 6 6
ひとつやろうか、無茶な同盟
これまで対立していた薩摩藩と長州藩が、政治的・軍事的に同盟関係になった。
朝廷と幕府、大名を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとする(こうぶがったい)を推進してきた薩摩藩。かたや長州藩は反幕府的な立場だった。
長州藩は京都御所で会津藩・薩摩藩・桑名藩と武力衝突し(禁門の変)、敗退する。
幕府もまた強力な薩摩藩の力を削ぎ落そうとし、朝敵(天皇の敵)となった長州藩を討てと薩摩藩に命じた()。
戦を回避したい薩摩藩の内部で、幕府への反発が表面化。反幕府側の長州藩と利害が一致するようになっていった。
そこで土佐藩の脱藩浪人・(さかもとりょうま)や(なかおかしんたろう)が仲介し、薩摩藩の(さいごうたかもり)と長州藩の(きどたかよし)との間で(さっちょうどうめい)が結ばれた。
1867年(慶応3)
大政奉還
たいせいほうかん
1867
人はむなしく大政奉還
15代将軍・(とくがわよしのぶ)が政権を朝廷に返上した。
幕府の力が落ちていくにつれて、朝廷と幕府、大名を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとする(こうぶがったい)を推進してきた薩摩藩。
しかしそれも上手くいかず、薩摩藩は長州藩と手を組んで倒幕の方向へ傾いていった(薩長同盟)。
しかし土佐藩の(ごとうしょうじろう)が(さかもとりょうま)が発案した新政府の基本方針である(せんちゅうはっさく)をもとに、大政奉還を主張。
薩摩藩もこれに同意し、土佐藩主・(やまうちとよのり)は大政奉還をするよう徳川慶喜に進言した。
- 【船中八策】
- 一、天下ノセシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
(大政奉還)
- 一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
(二院制の議会政治)
- 一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。
(有能な人材の積極登用)
- 一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
(不平等条約改正)
- 一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
(憲法の制定)
- 一、海軍宜シク拡張スベキ事。
(海軍力の増強)
- 一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
(天皇を守る警備組織の設置)
- 一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。
(金や銀の交換レートの変更)
徳川慶喜は合議の結果、これを受け入れ、朝廷に政権を返上した。朝廷はこれを受け入れた。
1868年(慶応3)
王政復古の大号令
おうせいふっこのだいごうれい
1868
人はむやみに大号令
徳川幕府による武家政治の終了にともない、天皇を頂点とする政治に戻すという宣言がなされた。
江戸幕府による大政奉還のあとも、権力を握ったまま政治に関与できると考えた徳川氏。
しかし倒幕派の公家・(いわくらともみ)や長州藩・薩摩藩などはこれに反発し、幕府を廃止して天皇のもとで有力な藩が共同で政治を行う政治を行うと宣言した。
王政復古の大号令で新政権は、徳川慶喜が申し出た将軍職の辞職を認め、江戸幕府を廃止し、新たに総裁・議定・参与の三職をおくことなどを宣言した。
当然幕府側は反発し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)へと発展した。
1868年(慶応4/明治1)
戊辰戦争
ぼしんせんそう
18 68
鳥羽で老婆も戦うぞ
旧幕府軍と新政府軍の対立は戦争に発展し、16ヶ月に及ぶ戦闘の結果、新政府軍が勝利した。
新政府からの処遇に不満を抱いた(とくがわよしのぶ)は、旧幕府側の会津藩や桑名藩に出兵を命じた。
神戸沖で旧幕府軍艦が薩摩藩軍艦に発砲したことが直接の原因で戦闘が開始され、京の郊外で大きな戦になった。((とば・ふしみのたたかい))。
鳥羽・伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わり、慶喜は江戸の寛永寺(かんえいじ)に謹慎となった。江戸城は無血開城された。
しかし会津藩をはじめとする東北の藩は引き続き抵抗した。会津藩が降参したあとも、(えのもとたけあき)ら旧幕府海軍を主体とする勢力は蝦夷地(えぞち)で抵抗を続けたが、最後は新政府軍に敗れた。()
1869年(明治2)
版籍奉還
はんせきほうかん
18 69
威張る無口な藩主が返上
藩主が土地と人民に対する支配権を朝廷に返還した。
(たいせいほうかん)後も、地方では藩が土地と人民を掌握していた。
新政府(明治政府)はこれまでの(ほうけんせいど)から中央集権体制への移行をもくろみ、諸藩の土地と人民を天皇に返還させようと考えた。
まずは薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩が代表となって、土地と人民の天皇への返還を行った。
するとそのほかの藩もそれにならった。
明治政府は藩主を知藩事(ちはんじ)に任命した。
さらにこれに続いて廃藩置県(はいはんちけん)を実施した。
1871年(明治4)
日清修好条規
にっしんしゅうこうじょうき
1871
一番 内 容がまともな条約
日本は清国と対等の条約を結んだ。
明治政府は朝鮮と国交関係を築くことができなかった。
そこで朝鮮の宗主国である清国と対等条約を結ぶことで、朝鮮に対して優位に立とうとした。
日本と清は初めて条約を結んだ。
内容は相互に領事裁判権や協定関税を認め合う対等なものであった。
この条約は日清戦争まで有効だった。
1871年(明治4)
廃藩置県
はいはんちけん
1871
言わない廃藩置県のことは
これまでの藩を廃止して、府と県を置いた。
(たいせいほうかん)後も、地方では藩の大名がそのまま知藩事(ちはんじ)として権力を握っていた。
明治政府はこれまでの(ほうけんせいど)から中央集権体制への移行をもくろみ、全ての藩を廃止して、代わりに府と県を置くことにした。
3府(東京・大阪・京都)302県を設置し、さらに統廃合されて3府72県となり、その後も何度か合併・分離が行われた。
知藩事は失職し、東京への移住が命じられた。代わりに府県には府知事・県令(けんれい)が派遣された。
1873年(明治6)
徴兵令発布
ちょうへいれいはっぷ
1873
岩 並みの強い国づくり
(ふこくきょうへい)のスローガンのもと、近代的な軍隊が作られた。
「富国強兵」実現のために、これまでの武士による戦闘ではなく、(しみんびょうどう)による(こくみんかいへい)の制度の整備が急務とされた。
徴兵令では、抽選で選ばれた満20歳の男子が3年の兵役に従事することを定めた。
しかし家の主人や家の後継ぎは徴兵を免除されるなど、徴兵免除の条件が多かったため、徴兵を逃れようと養子縁組をする者が続出した。
また徴兵令に反対する農民たちによる一揆が起きた()。
1873年(明治6)
地租改正
ちそかいせい
1873
人は 涙 の地租改正
政府は国庫収入を安定させるために、土地の所有者に(ちけん)を交付して土地の私的所有権を確立させ、金銭で納税させるようにした。
これまで租税は、土地の石高に応じて年貢を耕作者に課していた。それゆえに年によって収穫量が異なるため、政府の収入は安定しなかった。
これを正し、安定収入を見込める税制を確立する必要がでてきた。
政府は土地の所有者に地券を交付し、土地の所有権を認めた。
また、税率をとし、土地の所有者が金銭での納税の義務を負うとするを制定した。
これにより政府の収入は安定したが、地租改正に反対する一揆が発生した。
1874年(明治7)
民撰議院設立建白書
みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ
1874
イヤな世、変えるため議会を作ろう
(いたがきたいすけ)たちが政府に対して、国会の開設を要求する意見書を提出した。
(せいかんろん)の論争に敗れた板垣退助や(そえじまたねおみ)は、政党の結成を発案。
(あいこくこうとう)を設立し、これまでの藩閥専制を批判した。
彼らは選挙で選ばれた議員による議会の設置を求め、太政官左院に建白書(意見の申立書)を提出した。
のきっかけとなった。
1877年(明治10)
西南戦争
せいなんせんそう
1877
イヤな名残した西郷隆盛
明治政府に不満を持つ士族たちが(さいごうたかもり)を前面に押し出して、九州南部で起こした反政府の戦。
明治政府によるの政策で特権を失った士族が貧困化し、不満を溜めこむようになった。
(せいかんろん)の論争に敗れた西郷隆盛は、郷里の鹿児島に戻って私学校を開いた。そこの学生である士族たちが、明治政府への不満を爆発させ、隆盛を担いで挙兵した。
西郷隆盛の軍は熊本城に攻め込むが、によって集められた明治政府軍に反撃される。田原坂(たばるざか・熊本県熊本市)での戦いを機に、戦線は次第に後退。
最後は城山(しろやま・鹿児島県鹿児島市)での籠城戦で隆盛は自害し、明治政府軍が勝利した。
1881年(明治14)
開拓使官有物払下げ事件
かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん
1881
人はワイロに弱いのさ
(くろだきよたか)が開拓使の施設などを、(ごだいともあつ)が経営する企業に極端な安値で払下げることを決めた。
これが世間の批判を受けて、払下げは中止になった。
北海道の開拓をすすめるために設置された役所である(かいたくし)の長官だった黒田清隆は、10年間で1,400万円の費用をかけて船舶、倉庫、農園、炭鉱、工場などを整備させた。
しかし開拓使の廃止が決定し、事業が赤字だったため、これらの施設や設備を安値で民間に払い下げることにした。
黒田は同じ薩摩出身の政商・五代友厚が経営する関西貿易商会に、無利息39万円で払い下げることにしたが、これはあまりにも極端な安価だった。
前大蔵卿の(おおくましげのぶ)は安価な払い下げに反対。世論も政府への強い批判を展開し、自由民権運動がさらに大きくなった。
結果として払い下げは断念。薩摩の利益に反発した形となった大隈重信は、で追放される。
1881年(明治14)
国会開設の詔
こっかいかいせつのみことのり
1881
いち早い国会の開設を
は、国会を開設することと(きんていけんぽう)を定めることを表明した。
開拓使官有物払下げ事件を受けて、開拓使長官の(くろだきよたか)を厳しく批判した(おおくましげのぶ)は、国会を早く開設せよと主張した。
しかし国会開設を慎重にすべきだと考えていた(いとうひろぶみ)は、大隈重信を政府から追放してしまった()。
伊藤博文の横暴に対して世論は反発。自由民権運動がますます盛り上がった。
政府は鎮静化のため、近い将来に国会を開設することを決め、明治天皇に詔勅を出させた。
1894年(明治27)
日清戦争
にっしんせんそう
1894
一躍、清と戦争だ
朝鮮で発生した(こうごのうみんせんそう・東学党の乱)を口実にして、日本と清が朝鮮に派兵し、結果的に日本と清の間で戦争になった。日本が勝利した。
朝鮮で起きた農民の内乱(甲午農民戦争)に対して、朝鮮政府は清に鎮圧を要請し、清は兵を朝鮮半島に派遣。
1885年(明治18年)に結ばれた(てんしんじょうやく)で、日本と清は朝鮮に派兵する際に相互に通知することを義務付けていたので、この条約と朝鮮国内の日本大使館を守護する口実で、日本も兵を派遣した。
甲午農民戦争終結後も日清両国は兵を駐留し続けた。朝鮮の清への依存を絶ち切り、独立させたい日本と、有史以来朝鮮は中国の属国だったと解釈していた清の間の対立は激化し、戦争になった。
日本軍は清国軍を朝鮮から追い出し、さらに(リャオトンはんとう)を占領。圧倒的な勝利を収めた。