明治・大正・昭和時代、1900~1949年
1902年(明治35)
日英同盟
にちえいどうめい
1902
日暮れに結ぶ日英同盟
日本とイギリスのどちらか一方が他国と戦争する場合、中立を守る。また2国以上と戦争する場合は、共同で戦うことを決めた。
ロシアによる清国北部(満州)支配が進み、日本は脅威に感じていた。
イギリスは「光栄ある孤立」という外交姿勢だったが、清国を半植民地化していたので、ロシアの東アジア侵出をやはり脅威に感じていた。
お互いの利害が一致した日本とイギリスは、同盟を結んだ。
「日本とイギリスのどちらか一方が他国と戦争する場合、中立を守る」という項目により、ではイギリスは中立を守った。
また「2国以上と戦争する場合は、共同で戦う」という項目により、第一次世界大戦ではイギリスの要請を受けて、日本はドイツに宣戦布告した。
画像引用:wikipedia/World Imaging(http://urx2.nu/yEBc)
1912年(大正1)
第一次護憲運動
だいいちじごけんうんどう
1912
得意 に叫ぶ憲政擁護
薩摩藩・長州藩の出身者で独占されていた政治を批判し、憲法に基づいた議会中心の政治を望む勢力による政権打倒運動。
明治時代、薩摩・長州藩の出身者が政治権力を握っていた((はんばつせいじ))。
1912年(大正1年)に第3次(かつらたろう)内閣が組閣されると、藩閥政治に反対する(おざきゆきお)と(いぬかいつよし)らは、強く反発した。
「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに世論は盛り上がった()。
閥族打破(ばつぞくだは)とは藩閥政治を打破しよう、憲政擁護(けんせいようご)とは憲法に基づいた政党政治をしようという意味。
ちなみに護憲運動の「護憲」は、現在使われている「憲法改正をしない」という意味ではない。
1913年(大正2年)、尾崎たちは内閣不信任案を提案しようとしたが、阻止された。しかしその後、民衆が国会に押し掛ける騒ぎになり、騒動は全国に波及。結局桂内閣は総辞職を余儀なくされた((たいしょうせいへん))。
1914年(大正3)
第一次世界大戦
だいいちじせかいたいせん
19 14
遠くで必死な世界大戦
欧州を中心に30カ国以上が参戦した大戦争。
セルビアの青年がオーストリア皇太子夫妻を暗殺()し、オーストリアがセルビアに宣戦布告。
これにさまざまな国が参戦し、(さんごくきょうしょう)を組んだイギリス・フランス・ロシアの連合国と、(さんごくどうめい)を形成したドイツ・オーストリア・イタリアの同盟国の間で戦いが激化した。
日本は日英同盟を理由に連合国側として参戦し、ドイツの植民地だった中華民国の青島(チンタオ)に攻めこみ、中華民国にも対華21カ条の要求を付きつけた。
途中でイタリアが連合国側に寝返ったり、アメリカが連合国側で参戦したり、ロシアではが発生したりと混迷を極めながら、戦争は4年続いた。
ドイツでの発生により、戦争続行が困難になると、ドイツは連合国軍に降伏した。
1915年(大正4)
対華21カ条の要求
たいか21かじょうのようきゅう
1915
遠く異国が争う隙に
第一次世界大戦中に日本政府が中華民国に対して21項目の要求を突き付け、中華民国はこれを受け入れた。
第一次世界大戦に参戦した日本は、ドイツの支配下だった青島(チンタオ)を含む山東省(さんとんしょう・シャントン)を占領した。
中華民国政府は山東省の権益は中華民国が持つべきだと主張し、日本政府と対立した。
(おおくましげのぶ)内閣は、中華民国の初代大総統・(えんせいがい)に対して21カ条にわたる要求・希望を突きつけた。
14カ条の要求と7カ条の希望、計21カ条の内容のうち、主なものは以下のとおり。
- ドイツが山東省に持っていた権益は日本が継承する
- する
- 中華民国最大の製鉄会社の日中合弁化
- 沿岸の港湾・島を外国に譲ったり貸したりしない
- 中華民国政府の顧問として日本人を雇用する
袁世凱は日本の要求を誇大に宣伝し、国内の反日世論を高めつつ、諸外国を味方につけようとした。しかし第一次世界大戦中のため注目を大きく集めることができなかった。
4ヶ月の交渉の末、16項目に削減したものを条約として締結したが、すぐに中華民国が「日本人に土地を貸した者は死刑」という法を作り、条約効力の無効化を謀った。
1918年(大正7)
米騒動
こめそうどう
1918
行く人は米屋を襲う米騒動
米の価格が急上昇し、庶民が安価での販売を求めて抗議した。
第一次世界大戦の影響で好景気になった日本では、米が投機目的となり、価格が急上昇した。
さらにのために政府が米を買い入れたので、ますます価格が上がり、米価は8ヶ月で4倍になるという異常事態になった。
富山県魚津では主婦たちが、県外への米の積み出しを阻止。騒ぎは県内にひろがり、米を相場の1~3割引で売るように強いた。
この動きは全国の主要都市でも発生し、焼き打ちや打ち壊しに遭う米屋もあった。
この騒動の責任をとって(てらうちまさたけ)内閣は総辞職した。
画像引用:魚津市観光協会(http://www.uozu-kanko.jp/?p=1216)
1919年(大正8)
パリ講和会議
ぱりこうわかいぎ
1919
行く行くパリへ、講和のために
第一次世界大戦が終結し、戦後処理と新たな国際秩序を決定するための会議が開かれた。
第一次世界大戦は連合国の勝利で終わり、敗戦した同盟国のドイツの処分と新たな国際秩序について、フランスのパリで国際会議がもたれた。
アメリカ大統領ウィルソンは国際協調を求めたが、フランスはドイツへの報復を主張し、結果としての設立以外は、ほぼフランスの主張が通った。
なお、連合国だったロシアは国内の混乱のため、会議に参加しなかった。
ドイツは連合国とを締結。
条約はドイツに対して非常に厳しい内容であった。
- 国際連盟を設立する
- ドイツは領土の一部と国外の権益、植民地を失う
(ドイツが山東省に持っていた権益は日本へ譲渡)
- ドイツの軍備は縮小・制限される
- ドイツは連合国に賠償金を支払う
この条約でつくられた資本主義国による国際体制は、と呼ばれる。
1920年(大正9)
国際連盟発足
こくさいれんめいほっそく
1920
いい 国 を集めて国際連盟
パリ講和会議でが締結され、条約に基づいて、国際連盟が成立した。
第一次世界大戦の講和に向けてアメリカ大統領ウィルソンはを発表し、国際平和機構の設立を呼びかけた。
これに基づいてパリ講和会議で締結されたヴェルサイユ条約において、国際連盟の設立が明文化され、発足した。
常任理事国はイギリス・フランス・イタリア・日本。
国際連盟は世界の小規模な紛争の解決に役立ったものの、有力国のアメリカやソ連・ドイツが不参加だったため、充分には機能しなかった。
1921年(大正10)
ワシントン会議
わしんとんかいぎ
1921
引くにひとしいワシントン会議
アメリカ・ワシントンで軍縮会議が行われ、その結果、日本の中国進出が抑えられた。
第一次世界大戦後の軍縮において、国際連盟にアメリカが加盟していなかったため、アメリカを含む大国間での会議が必要となった。
またアメリカは日本の中国大陸進出を脅威とみなし、それを阻みたいと考えていた。
この会議では3つの条約が締結された。
まずによって、アメリカ・イギリス・日本・フランスは、太平洋地域での領土について現状維持を決めた。日英同盟は破棄になった。
またによって、日本の中国進出は抑制され、中国権益の保護を図った。対華21カ条の要求のうちの、「日本がドイツから獲得した山東省の権益」は中華民国に返還された。
そしてアメリカとのは破棄になった。
さらににより、海軍の主力艦保有比率がアメリカ・イギリス5、日本3、フランス・イタリア1.67と決まった。
この条約でつくられたアジア太平洋地域の戦後秩序は、と呼ばれる。
1923年(大正12)
関東大震災
かんとうだいしんさい
1923
遠くに見えた浅草十二階倒壊
東京を中心に大地震が発生し、かつてない規模の大被害が出た。
東京や横浜を中心にマグニチュード7.9と推定される大地震が起きた。ちょうど昼どきだったので、食事の支度をする家庭も多く、火災も多数発生した。
当時の浅草のシンボルで、浅草十二階と呼ばれていた高層建築の(りょううんかく)も建物の8階部分より上が崩壊した。
震災後の混乱により社会不安が増し、社会運動家を弾圧する動きがあった。社会主義者の大杉栄(おおすぎさかえ)たちが憲兵隊に殺害された(あまかすじけん・大杉事件)や、亀戸事件(かめいどじけん)などが起きた。
また混乱に乗じて朝鮮人が暴動・放火を起こすなどの噂が流れ、自警団などによって200人以上の朝鮮人・中国人・日本人が殺害された。
政府は(かいげんれい)を発令した。
第一次世界大戦後、好況だった日本経済は不況に転じ、この震災でさらなる痛手を受けた。
1925年(大正14)
治安維持法
ちあんいじほう
1925
特 にご注意、共産主義者
共産主義運動の激化を抑えるために、政府が導入した法律。
によるソビエト連邦の成立と日ソ基本条約調印を受け、政府は共産主義思想が拡大することを恐れた。
そこで当時の国家体制を変革したり、資本主義制度を否定しようとする組織を結社した者を罰する法律を制定した。
のちに法改正があり、共産主義者だけでなく、労働争議や自由運動をも弾圧するようになった。
数多くの活動家、運動家が弾圧を受け、プロレタリア文学の代表作「蟹工船」の著者・(こばやしたきじ)は、取調べ中の拷問によって死亡した。
1925年(大正14)
普通選挙法公布
ふつうせんきょほうこうふ
1925
行くぞ25歳以上は普通選挙
に選挙権が与えられた。
日本での選挙制度では、これまで国税を3円以上納税している25歳以上の男子のみに選挙権が与えられていた。
により、政党内閣の結成・普通選挙の実施を公約に掲げた護憲三派(立憲政友会・憲政会・革新倶楽部)が衆議院選挙で勝利。(かとうたかあき)内閣が組閣された。
加藤内閣は衆議院議員選挙法を改正し、納税額に関係なく25歳以上の男子全てに選挙権を与えた。これが日本における普通選挙のはじまりである。
しかし女性にはまだ選挙権は与えられなかった。
1927年(昭和2)
金融恐慌
きんゆうきょうこう
1927
重苦になった金融恐慌
政府は関東大震災でさらに悪化した景気を建てなおそうとするが、銀行の体力が衰えているところに、が起きた。
第一次世界大戦中の好景気は戦後、不景気に変わり、さらにが追い打ちを掛けて、日本経済は悪化する一方だった。
企業による銀行への支払いが滞ったため、一時的に政府が肩代わりした手形()が不良債権化。銀行の経営を圧迫した。
そのタイミングで大蔵大臣が「東京渡辺銀行が破綻した」と誤った発言をした。
銀行が危ないという意識がひろまり、預金を引き出そうと民衆が銀行に殺到した(取り付け騒ぎ)。
さらに商社の鈴木商店が破綻。多額の融資をしていた台湾銀行が休業に追い込まれ、他の銀行にも大影響を与えた。
この騒動の責任をとって(わかつきれいじろう)内閣は総辞職した。
このあと組閣された(たなかぎいち)内閣は、3週間の支払猶予令()を発令。さらに日銀は巨額融資を行い、金融恐慌は一段落した。
画像引用:駒澤大学経済学部小林研究室(http://qq4q.biz/yIHM)
1929年(昭和4)
世界恐慌
せかいきょうこう
1929
特 に くるしむ世界恐慌
ニューヨークの株式市場が暴落したのをきっかけに、世界的に景気が大幅に悪化した。
それまで好調な株価を維持してきたニューヨーク株式市場が、1929年(昭和4年)10月24日に大暴落した(ブラックサーズデー)。
その後も回復せず、米国の景気は大幅に悪化したが、米国政府は対策を打てなかった。
好況だった米国経済に依存していた各国は、米国での大不況の影響を受けて、世界的な恐慌となっていった。
1930年(昭和5)
金輸出解禁
きんゆしゅつかいきん
193 0
戦(いくさ)を忘れて金解禁
日本は日清戦争の賠償金を元手に(きんほんいせい)に移行した。
その後、第一次世界大戦下で中止されていたが、再開された。
金本位制とは、政府が保有する金(きん)の量をもとに、金と交換できる紙幣を発行して、紙幣の信用を金の保有量で担保する制度。
日本はの賠償金を元手に金本位制に移行した。しかしにより、日本を含めた世界各国は紙幣と金の交換を停止した。
戦後、各国は金本位制を再開したが、日本は復帰できていなかった。
震災不況につづき金融恐慌も発生し、日本は長い不況下だったため、金本位制への復帰は先延ばしにされていた。
(はまぐちおさち)内閣は金本位制を再開した。
しかし前年(1929年)に発生した世界恐慌により、日本の輸出産業は円高で国際競争力を失う。さらに銀価格、生糸価格、米価が暴落。昭和恐慌に陥り、翌年(1931年)末には(いぬかいつよし)内閣が、再び金本位制を停止した。
1930年(昭和5)
昭和恐慌
しょうわきょうこう
1930
人、草を食うほど貧しい昭和恐慌
1929年(昭和4年)に発生した世界恐慌と、翌年の金輸出解禁により、不況が深刻化した。
世界恐慌の波が日本にも及んだ時期に、政府が金本位制を復活させたことで、金が国内から流出。デフレ状態となり、物価が下落した。
デフレで輸出産業の進展が期待されたが、緊縮財政を行ったために円高になり、逆に輸出が不振に陥った。
輸出産業は大打撃を受け、商品市場は暴落。株式市場にも波及し、企業の倒産が相次いだ。失業者は大幅に増えた。
生糸の対米輸出激減と豊作による米価下落により、農村のダメージは特に大きい物となった。
1931年(昭和6)
満州事変
まんしゅうじへん
193 1
行くさ!一気に満州事変
関東軍(満州に駐屯していた日本軍)がを爆破し、それを中華民国の軍(中国国民軍)の自作自演であると断定して、軍事行動を起こした。
中華民国内で高まる民族主義は、明治時代から続いていた満州(まんしゅう・中国の東北地方)での権益を維持したい日本の立場と対立することになった。
この解決のため、満州を全部占領してしまおうと関東軍が策略。日本政府や軍首脳の承諾を得ずに、奉天(ほうてん・現在の瀋陽(シェンヤン))の郊外で南満州鉄道を爆破した((りゅうじょうこじけん))。
柳条湖での爆発は中華民国によるものだとした関東軍は、鉄道防衛の目的と称して軍事行動を拡大した。
中華民国側は共産党との内戦中だったため、関東軍にほとんど抵抗しなかった。
日本政府は不拡大方針をとったが、関東軍はこれを無視して、満州全域を占領した。
米国などの諸外国は、これに反発した。
1932年(昭和7)
五・一五事件
ご・いちごじけん
193 2
戦(いくさ)につながる五・一五
海軍青年将校が首相官邸や日本銀行・警視庁などを襲撃。(いぬかいつよし)首相を殺害した。
を締結したでの首席全権だった前総理(わかつきれいじろう)に対して、海軍将校たちは大きく不満を抱いた。
満州事変を受けて戦線の不拡大方針をとった若槻首相だったが、内閣からも反対意見が出て政局は混乱。結果として第2次若槻内閣は総辞職した。
次に組閣された犬養毅内閣は、軍部による政治介入に危機感を持ち、満州国の承認を迫る軍部の要求を拒否。満州国の領有権は中華民国のものだが、日本が経済的に支配するという策で、中華民国と外交交渉に臨もうとした。
しかし交渉は頓挫した。
これを弱腰な外交姿勢だと判断した海軍将校たちは、政府を倒そうとし、首相官邸や日本銀行・警視庁などを襲撃するテロ事件を起こした。その際に犬養毅首相を殺害した。
1933年(昭和8)
国際連盟脱退
こくさいれんめいだったい
193 3
戦(いくさ)見せると連盟脱退
に基づいて、国際連盟は(まんしゅうこく)の正当性を認めないという決議を採択。日本は採択に反発して国際連盟を脱退した。
満州事変(まんしゅうじへん)後、日本は満州国を建国させた。しかし中華民国がこれに反発し、国際連盟に提訴。
国際連盟は事実関係の調査のため、を満州国に派遣した。
その報告書で、日本が持つ満州での権益は認めたものの、満州国については中華民国の主張を支持した。
報告書は国際連盟で審議され、賛成多数で採択された。日本側の全権・(まつおかようすけ)は、抗議して議場から退場。日本は国際連盟を脱退した。
1936年(昭和11)
二・二六事件
に・にろくじけん
1936
行く 寒空の二・二六
陸軍青年将校らがクーデターを起こしたが、未遂に終わった。
陸軍の派閥の皇道派は、政治腐敗撲滅と農村の窮乏改善のために、天皇による政治実現を目指した(天皇親政)。
そのためには武力で現政権を倒す必要があるとして、クーデターを画策した。
皇道派の一部青年将校らが蜂起し、(たかはしこれきよ)大蔵大臣や(さいとうまこと)内大臣らを殺害。総理大臣官邸や警視庁、各新聞社などを襲撃した。
これらは陸軍当局によって鎮圧された。これ以降、陸軍の派閥の統制派を中心とする軍部の発言権が強化された。
画像引用:千代田区立日比谷図書文化館(http://hibiyal.jp/hibiya/index.html)
1937年(昭和12)
日中戦争
にっちゅうせんそう
193 7
いくさ(戦)ながびく日中戦争
日本と中華民国の間で戦争が起こった。
満州事変と満州国建国後も、日本軍と中華民国の小規模な衝突やテロが散発していた。
北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)近くで、日本軍の夜間演習中に実弾が発射されたことをきっかけに中華民国の国民党軍と戦闘になった((ろこうきょうじけん))。
両国は全面戦争となり、日本軍は上海を占領したのち、南京も占領した。
この際、日本軍が捕虜や便衣兵(べんいへい・一般市民に変装した兵士)、一般市民などに対して殺傷や暴行を行ったとされるが起きた。
(※南京事件については規模や虐殺行為の有無、被害者数などで論争があり、正確なところは判明していない)
戦争は長期化し、真珠湾攻撃によってアメリカも加えた太平洋戦争へとひろがっていった。
1938年(昭和13)
国家総動員法
こっかそうどういんほう
1938
戦(いくさ)は国家総動員で
国すべての人的・物的資源を統制できる超法規的権限を政府に与えた法律が公布された。
日中戦争が激化するにともない、「挙国一致」で国・国民・企業が一丸となって戦争に全精力を注ぐ環境が必要になった。
国民・企業に対し、強制力のある統制ができる法律の制定が陸軍の主導で立案され、成立にこぎつけた。
政府が国会審議不要で国民や企業を統制できるため、社会主義的だとの批判も出た。
- 国民の産業への徴用
- 物資の生産、配給、所持などの制限
- 企業の合併や分割、商品価格などの統制
この法律によって、国民生活に必要な物資よりも軍事物資の生産が優先され、戦時の経済体制が確立した。
1939年(昭和14)
第二次世界大戦
だいにじせかいたいせん
193 9
戦(いくさ)くるしむ世界大戦
ドイツ軍によるポーランド侵攻をきっかけに始まった(すうじくこく)と(れんごうこく)との大戦争。6年続いた。
ドイツ人が居住していたオーストリア、チェコを併合したドイツは、さらにポーランドをも呑みこもうとしていた。
ドイツはこれまで敵対していた共産主義のソ連と独ソ不可侵条約を締結し、ソ連が攻めてこなくなったと判断して、ポーランドに侵攻した。
ポーランドの同盟国だったイギリスとフランスが、ドイツに宣戦布告。しかしすぐに戦闘は始まらず、その間にソ連もポーランドの東半分を占領し、フィンランドとバルト三国を併合した。
ドイツは西方向へも侵攻を始め、オランダ、ベルギー、フランスを降服させる。そしてイギリスとも戦闘になった。
またイタリアもドイツと組んで参戦。日本も加わって日独伊三国同盟を結んだ。
1940年(昭和15)
日独伊三国同盟
にちどくいさんごくどうめい
1940
行くよ応援、三国同盟
日本、ドイツ、イタリアの3カ国間で軍事同盟を結んだ。
国際連盟を脱退した日本は、国際的な孤立を防ぐために同じく脱退したドイツやイタリアに接近した。
またソビエト連邦は日本やドイツを仮想敵国としていたので、反共産主義を旗印に1936年(昭和11年)に日本とドイツの間で日独防共協定が調印された。
翌年イタリアが調印し、(にちどくいぼうきょうきょうてい)となった。
さらに三カ国の結束を深めるため、いずれかの国が第二次世界大戦のヨーロッパ戦線や日中戦争に参加していない国から攻撃を受けた場合は、相互に援助すると決めた。
- 第一条 日本國ハ「ドイツ國」及「イタリヤ國」ノ歐州ニオケル新秩序建設ニ關シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重ス。
-
- 第二条 「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、日本國ノ大東亞ニオケル新秩序建設ニ關シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重ス。
-
- 第三条 日本國、「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、前記ノ方針ニ基ツク努力ニ附相互ニ協力スヘキ事ヲ約ス。更ニ三締結國中何レカ一國カ、現ニ歐州戰爭又ハ日支紛爭ニ參入シ居ラサル一國ニ依リ攻撃セラレタル時ハ、三國ハアラユル政治的經濟的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキ事ヲ約ス。
1941年(昭和20)
真珠湾攻撃
しんじゅわんこうげき
1941
行くよ一気に真珠湾
日本軍がアメリカ・ハワイの真珠湾の基地を攻撃し、(大東亜戦争)が始まった。
日本への経済制裁、いわゆる(ABCDほういもう)の一環で、アメリカから石油の全面禁輸措置を受け、石油の輸入のほとんどをアメリカに頼っていた日本は、窮地に陥った。
アメリカは日独伊三国同盟の解消や、中華民国および仏領インドシナからの全面撤兵などを要求した()。
ハルノートの受け入れはできないと判断した日本は、アメリカと戦争する道を選び、真珠湾の基地を攻撃した。
攻撃は成功し、日米は戦争に突入した。
1945年(昭和20)
ポツダム宣言の受諾
ぽつだむせんげんのじゅだく
1945
行く 横須賀の戦艦ミズーリ
アメリカ・イギリス・中華民国は、日本に対して(大東亜戦争)での降伏を要求。日本はこれを受け入れた。
アメリカ軍による本土への空襲に続き、沖縄本島での地上戦でも大きな被害を受けた日本。
一方、同盟国のドイツが無条件降伏。ドイツの処分を協議するため、アメリカ・イギリス・ソ連がドイツのポツダムで会談し、日本に降伏を求める宣言が発表された。
ポツダム宣言の発表後、日本は宣言を無視して徹底抗戦の構えを続けた。
しかし広島と長崎に原子爆弾が投下され、さらにソ連がを破棄して日本へ宣戦布告。
行き詰った日本は、ポツダム宣言を受け入れることを決定。翌日の1945年(昭和20年)8月15日にラジオの(ぎょくおんほうそう)で敗戦を国民に知らせた。
8月17日に敗戦の責任を取って(すずきかんたろう)内閣が総辞職。
そして9月2日、神奈川県横須賀市のアメリカ戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印した。
▲降伏文書に署名する重光葵(しげみつまもる)外務大臣